●カリジェとウルスリの鈴17

「百年の眠りをむさぼる桃源郷」とカリジェが呼んだ、オーバーザクセン地方。左上に小さな祠が見える。
それから安野先生と私は、カリジェが後半生の大部分をすごしたプラテンガ村を訪ねることにしました。その前に大きな僧院がある隣町のディセンティスに行き、そこにあるカリジェの絵や本を出版していたディセルティナ社に寄りました。ここにはカリジェの担当編集者だったヘンリーさんが私たちを待っていてくれて、雪景色のオーバーザクセン地方を、プラテンガまで車を走らせてくれたのです。


小雪の舞う、プラテンガの「ズンネファンク」の家. 左がヘンリーさん、右にアリックさん
プラテンガは、カリジェのアトリエ兼住まいのあったところで、その家は「ズンネファンク」と呼ばれています。これは太陽を捕まえるという意味だそうです。お隣に住むアリックさんは、カリジェの助手のようなことをしていたそうで、チューリヒまで絵を売りに行くカリジェを馬や馬橇に乗せて反対側の麓のイランツまで下りたそうです。カリジェは絵が売れると飲んだくれて帰ってくることが多かったらしいです。
アリックさんのお部屋には、カリジェが結婚祝いに描いてくれた絵や、20才頃の肖像画がかかっていました。

カリジェが中の絵を描いたプラテンガの小さな祠
オーバーザクセン地方の道の傍らには、ちいさな祠が沢山あって、カリジェはその中にいくつか絵を描いています。ちょうど日本の道祖神のようなおもむきで、この地方は地形としては高いところにありますが、なにやら安曇野を思わせる、美しい里です。
カリジェは、それまでのデザイナーとしての名声をすべて捨てて、ここに隠棲したのでした。
スポンサーサイト
●カリジェとウルスリの鈴16
トルンの村で、もうひとつ見逃せないもの、それはカリジェが描いた14枚のキリストの受難の図です。キリストが十字架を背負って、ゴルゴダの丘を登り、磔にされたあと、また下ろされて聖布に包まれるまでの経緯が、14枚の絵に描かれていて、2枚1組で、7つの額に収まっています。この額縁は、弟のザーリが創ったものだそうです。


この14枚の絵の題には、「キリストの道行き」という訳がつけられていることが多いのですが、「道行っていうと男女の心中みたいでおかしいよね」と、安野先生と話したものです。


この7つの額に入った14枚の絵は、トルンのAgile Martin(マーチン養老院)の礼拝堂の左側の壁に、横並び一列に飾られています。
カリジェはこの養老院で亡くなりました。83才の生涯でした。





この14枚の絵の題には、「キリストの道行き」という訳がつけられていることが多いのですが、「道行っていうと男女の心中みたいでおかしいよね」と、安野先生と話したものです。


この7つの額に入った14枚の絵は、トルンのAgile Martin(マーチン養老院)の礼拝堂の左側の壁に、横並び一列に飾られています。
カリジェはこの養老院で亡くなりました。83才の生涯でした。


●カリジェとウルスリの鈴15
●カリジェとウルスリの鈴14

氷河特急のシッポ部分の手前がカリジェの墓がある墓地、左手に教会、ついでカリジェの生家
トルンには、カリジェの生まれた家とお墓、そして前にも紹介したアトリエのフルッジナスがあります。
お墓がある教会のうしろを、氷河特急がゆるやかにカーブして通り過ぎます。その教会の前にカリジェの生まれた家があり、カリジェは自分が生まれた場所から30mほどしか離れていない場所に眠っていることになります。
カリジェのお墓は自分でデザインしたものだそうです。すぐ奥には先に亡くなった弟のザーリの、同じようなデザインの墓もあります。


カリジェの墓 弟のザーリの墓
アトリエのフルッジナスは、あとで地図をよく見ると、村の反対側の小高い部分にあることが判りました。庭の反対側にはパン焼きコーナーというのがあって、やはりカリジェの絵が描かれています。パンを焼くのに、庭を突っ切って行くなんて、ご飯を炊く竃とお釜が外にあるようなもんだなあ、と思ったことでした。

フルッジナスの玄関には、「フルリーナ」の絵。

庭の反対側に造られた、美しいパン焼き小屋
●カリジェとウルスリの鈴13

スルシルヴァン美術館のカリジェの部屋に飾られた絵のひとつ。なぜか人物も動物も後ろ姿が多いのが気になる。
トルン(Trun)はなんと言ってもカリジェの生まれた町(1902年8月30日)、
そして亡くなった町(1985年8月1日)でもあります。
町の家々は、それぞれに紋様に飾られていて、ところどころにはカリジェの描いた壁画が、家壁の装飾に使われています。
カリジェは頼まれれば気軽に誰にでも絵を描いてあげたそうで、村の人々と密着した生活ぶりだったようです。
生家の横には、カリジェの原画を多く所蔵する、「スルシルヴァン美術館」(Museum Sursilvan)があります。3階がカリジェ専用の階になっていて、多くの絵や版画、絵本の原画などが陳列されています。
当時の館長のピウス・トマジェットさんは、この村の(唯一の?)医者だそうで、ふるさとを愛し、土地の人々を慈しみ、カリジェを守る、素晴らしく上質な人格の持ち主だという強い印象を受けました。都会よりも、深い田舎の方にこうした人物に遭遇する機会が多いのは、日本でも同じでしょうか?


スルシルヴァン美術館の入り口と、3階のカリジェの部屋入り口を示す、自筆のサイン

雑貨屋さんの入り口に、「フルリーナ」の絵が・・・。
(今回も三宅文子さんの写真を多く使わせていただきました)。
●カリジェとウルスリの鈴12

旅の途中で、安野先生がこの旅の目的地を入れた地図をスラスラスラーッと描いてくださいました。さすがポイントはすべて抑えた上で、普通の地図には出てこないような珍しい地名が入っています。
地図の中央右下の部分にある, ディセンティス、トルン、オーバーザクセン、イランツ、右端のグアルダ、それから右上のシュタイン・アム・ラインなどがそれです。
(矢印はあとから私が入れました)
これからカリジェと切り離せないこうした地名を訪ねてみたいと思います。

木製の玩具のようなトルンの駅、これも氷河特急の通過駅のひとつ。
トルンは、氷河特急沿線の、なにげなく通りすぎてしまうような町ですが、
実は,スイスで一番大きい州であるグリゾン州(ドイツ語でグラウビュンデン州)の礎となった3つの勢力が同盟を結んだ場所だそうで、記念のチャペルが駅前にあります。ちなみにグラウビュンデンというのは灰色の同盟と訳すことができ、クールのホテル・シュテルンの前に掲げられた州旗も、3つの部分で構成されていました。でもなぜ灰色と呼ぶのかは、どこかで調べたまま忘れてしまいました。

灰色同盟の記念のセント・アンナ礼拝堂と由緒ありげな右手の大楓
●カリジェとウルスリの鈴11


途中のSiatの村。写真はどうやらこの絵はがきの向こう側から撮ったらしい。
でも「こんな帽子屋根の塔は、どこにもあるんだよねえ」とは、安野先生と私の共通の溜め息。
さて、安野先生の一番の目的地は、いうまでもなくカリジェの生まれ故郷のトルンの町。先生は以前にもいらしたことがあって、美術館の引き出しの中に、カリジェの原画が無造作に入れられていたのに、たいそう驚いたそうです。いまはそれが立派に展示されています。
クールの町から、ライン川沿いにずんずんと遡って、トルンの町に入ったときにはもう夕暮れでした。
もう景色は見えないので、ともかくカリジェのアトリエであった「フルッジナス」だけでも確かめておこう、ということになって、車をあちこち巡らせたのですが、これが見つからない!ちっちゃな町だから迷いようもないのですが、これがなかなか行き着けないのです。通りがかりの少年に、私のつたないドイツ語で聞いて、言っていることはわからないので指差す方角に行ったら、道が段差になったような下にありました。
明日もう一度来る事にして、二人とも疲れきって無口になってしまいました。

夕闇迫る,アトリエ『フルッジナス』
●カリジェとウルスリの鈴10

壁にスグラフィッティ紋様を施したお土産店
安野先生の運転、私のナビゲートで、地図とカリジェの絵を片手に走り回る旅は3日ほど続きました。途中で日が暮れてしまって、やむなく近くの宿屋に泊まり、村のレストランで夕食をとるようなこともありました。
こんな時、女一人で入っていくと、それも日本人ですから怪訝な目で見られて、隅っこの席でひっそり食事ということが多いのですが、安野先生と一緒だと全然違います。
先生はまったく偉そうな様子などなさらないのですが、お店の人の対応が、私一人のときとは全然違うのです。必ず敬意をもって迎えられて良い席を用意してくれます。
そのことをなにげなく先生に言ったら,先生は私が驚くほどの大喜び。「ほんと?そんなこと言われると気分いいなあ!うん、何度でも言って・・・」とおっしゃるのです。これには私の方が2度びっくり。気恥ずかしくなって2度は言えなかったことを思い出します。


(今回の写真も、三宅文子さんの提供です)