[232] スイスの夏景色−アレッチ氷河
●[231]スイスの文化歴史街道ViaStoria-26
■トマスクックの旅ViaCook最終回ー150年前の今日、6月27日に世界初のスイス向けパッケージ旅行が出発しました。
一行がロンドンは発ったのは一日前の6月26日、大部分はパリに残って、27日にスイスへ向けて出発したのは、4人の男性と4人の女性、合計8人でした。一部鉄道を利用したとはいうものの、大部分は馬車か徒歩、おまけに食べ物は口に合わないという過酷な旅だったようですが、さすがは英国ジュニアアルパインクラブのメンバーらしく、見事に踏破しました。その中で、この旅行記を書いたジェミマ・モレル女史は当時31歳、牧師のお嬢さんだったとのことです。
(C)ViaStoria
無事にスイス15日間の旅を終えた一行は、7月10日、ヌーシャテルを発って、ディジョン経由でパリへ戻っています。
これ以降、ヨーロッパでは色鮮やかなポスターが人々をスイス旅行へと誘い、スイスはヨーロッパの一大観光デスティネーションとして発展したのです。

。
一行がロンドンは発ったのは一日前の6月26日、大部分はパリに残って、27日にスイスへ向けて出発したのは、4人の男性と4人の女性、合計8人でした。一部鉄道を利用したとはいうものの、大部分は馬車か徒歩、おまけに食べ物は口に合わないという過酷な旅だったようですが、さすがは英国ジュニアアルパインクラブのメンバーらしく、見事に踏破しました。その中で、この旅行記を書いたジェミマ・モレル女史は当時31歳、牧師のお嬢さんだったとのことです。

無事にスイス15日間の旅を終えた一行は、7月10日、ヌーシャテルを発って、ディジョン経由でパリへ戻っています。
これ以降、ヨーロッパでは色鮮やかなポスターが人々をスイス旅行へと誘い、スイスはヨーロッパの一大観光デスティネーションとして発展したのです。


。
●[230]スイスの文化歴史街道ViaStoria - 25
■トマスクックよりず〜〜〜っと昔ですが・・・・、ヌーシャテルは、ケルト文化の中心でした。

話はずっと古くなりますが、いまから2千年以上前のヨーロッパは,スイスを含めケルト人の世界でした。沢山の部族に分かれていたケルト人は、次第にローマ帝国に攻め滅ぼされて、西に追われ、いまではフランスのノルマンディー地方と、英国のアイルランド地方に名残を留めていますね。

スイス人の祖先もヘルヴェティア族というれっきとしたケルト人で、その遺跡がヌーシャテル湖の東端のラ・テーヌに残っています。紀元前5世紀頃に栄えたラ・テーヌ文化は、東のオーストリアに残るハルシュタット文化(紀元前800年ごろ)とともに、ケルトの歴史上2大遺跡として歴史の教科書にも載っています。そしてヌーシャテル湖畔には,ラ・テーヌ文化を現代に展示する立派な博物館、「ラテニウム」が建てられています。
http://www.latenium.ch/

スイスの正式名称は「スイス連邦」で、そのラテン語表示は、「Confederatio Helvetica」。その頭文字をとったCHはスイスを意味して、車のプレートの国名表示や郵便番号にも使われています(チョコレートではありません)。コインの刻名にもスイスの代わりにHelvetiaが使われ、日本だったら、さしずめヤマトの国と言った表現にあたるかもしれません。
ヌーシャテルは、この長いケルト文化のうちの、ラ・テーヌ文化を背負う大切な場所なのですが、トマスクックの旅は、この事実にはまったくお構いなしだったようです。。

話はずっと古くなりますが、いまから2千年以上前のヨーロッパは,スイスを含めケルト人の世界でした。沢山の部族に分かれていたケルト人は、次第にローマ帝国に攻め滅ぼされて、西に追われ、いまではフランスのノルマンディー地方と、英国のアイルランド地方に名残を留めていますね。


スイス人の祖先もヘルヴェティア族というれっきとしたケルト人で、その遺跡がヌーシャテル湖の東端のラ・テーヌに残っています。紀元前5世紀頃に栄えたラ・テーヌ文化は、東のオーストリアに残るハルシュタット文化(紀元前800年ごろ)とともに、ケルトの歴史上2大遺跡として歴史の教科書にも載っています。そしてヌーシャテル湖畔には,ラ・テーヌ文化を現代に展示する立派な博物館、「ラテニウム」が建てられています。
http://www.latenium.ch/


スイスの正式名称は「スイス連邦」で、そのラテン語表示は、「Confederatio Helvetica」。その頭文字をとったCHはスイスを意味して、車のプレートの国名表示や郵便番号にも使われています(チョコレートではありません)。コインの刻名にもスイスの代わりにHelvetiaが使われ、日本だったら、さしずめヤマトの国と言った表現にあたるかもしれません。
ヌーシャテルは、この長いケルト文化のうちの、ラ・テーヌ文化を背負う大切な場所なのですが、トマスクックの旅は、この事実にはまったくお構いなしだったようです。。
● スイスの文化歴史街道ViaStoria-24
■再びトマスクックの道ViaCook- ヌーシャテルへ
あれこれと寄り道をしているうちに、トマスクックのツアーが、いまから丁度150年前に、ロンドンから世界初のスイス向けパッケージ旅行に出発した6月26日が近づいてきました。
このブログ上では、一行の旅は,リギ山を過ぎて、鉄道でスイスの大学都市ヌーシャテルへ向かっています。

ヌーシャテルのシンボル、丘の上のコレジアル大聖堂。
ヌーシャテルはすでにその当時でも,時計産業の集散地として知られていたようです。この旅の記録を残したジェミマ・モレル女史によると、一行はここで時計を買うのを楽しみにしていたのが、アレンジの都合で、出発前の数時間しか買い物ができなかったと,苦情を漏らしています。このあたりも現代のパック旅行に似て、笑いを誘います。
向こうに見えるのスイス一大きいヌーシャテル湖 ヌーシャテルの旧市街
時計産業と同じルーツをもつ仕掛け装置、それは次第にオルゴール産業へと向かったのでしたが、写真のジャケー・ドロー制作の3体の仕掛け人形は、この世に存在していたのでした。しかしトマスクック一行が、この仕掛け人形を見学したという記録はありません。

この3体は人間の子供くらいの大きさがあり、それぞれ、ピアニスト、書記、画家の名で呼ばれています。実際に鍵盤を奏で、字を書き、絵を書く、もう300年も前に作られたものですが、現代ならさしずめロボットです。
あれこれと寄り道をしているうちに、トマスクックのツアーが、いまから丁度150年前に、ロンドンから世界初のスイス向けパッケージ旅行に出発した6月26日が近づいてきました。
このブログ上では、一行の旅は,リギ山を過ぎて、鉄道でスイスの大学都市ヌーシャテルへ向かっています。

ヌーシャテルのシンボル、丘の上のコレジアル大聖堂。
ヌーシャテルはすでにその当時でも,時計産業の集散地として知られていたようです。この旅の記録を残したジェミマ・モレル女史によると、一行はここで時計を買うのを楽しみにしていたのが、アレンジの都合で、出発前の数時間しか買い物ができなかったと,苦情を漏らしています。このあたりも現代のパック旅行に似て、笑いを誘います。


時計産業と同じルーツをもつ仕掛け装置、それは次第にオルゴール産業へと向かったのでしたが、写真のジャケー・ドロー制作の3体の仕掛け人形は、この世に存在していたのでした。しかしトマスクック一行が、この仕掛け人形を見学したという記録はありません。

この3体は人間の子供くらいの大きさがあり、それぞれ、ピアニスト、書記、画家の名で呼ばれています。実際に鍵盤を奏で、字を書き、絵を書く、もう300年も前に作られたものですが、現代ならさしずめロボットです。
●またしてもユジャ・ワン
■拙著『ピアニスト』のモデルとなったユジャ・ワンの写真が、カジモト音楽事務所から届きました。

(c)F.Broede
ピアニストは指だけで弾くにあらず、この肢体を見れば、腹筋、背筋ともにアスリート並みに鍛えているのは一目瞭然。本文中で、音楽と「視覚」の関係が云々されていますが、答えはこの写真を見ればおのずから出たようなものですね?

(c)J. Cheadle
ユジャ・ワンの次の日本公演は、6月27日サントリーホールでの、シャルル・デュトワとの共演。絶対見逃せません。プログラムやチケットの申し込みは、
http://www.kajimotomusic.com/jp/concert/k=337
また16才の時から、ユジャを見守り続けてきたデュトワのインタヴュー記事は、
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=1420/で見られます。

(c)F.Broede
ピアニストは指だけで弾くにあらず、この肢体を見れば、腹筋、背筋ともにアスリート並みに鍛えているのは一目瞭然。本文中で、音楽と「視覚」の関係が云々されていますが、答えはこの写真を見ればおのずから出たようなものですね?

(c)J. Cheadle
ユジャ・ワンの次の日本公演は、6月27日サントリーホールでの、シャルル・デュトワとの共演。絶対見逃せません。プログラムやチケットの申し込みは、
http://www.kajimotomusic.com/jp/concert/k=337
また16才の時から、ユジャを見守り続けてきたデュトワのインタヴュー記事は、
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=1420/で見られます。