[330]-スイスに住んだセレブ-1の6
■ 教会の塔に十字架がない!!!
前々回、トロシュナ村のチャペルの写真をご紹介したところ、屋根の塔に十字架が見えませんが、というご指摘がありました。ハイジおばさん、はじめて気がついてビックリ仰天!さっそくスイスの友人に問い合わせたところ、スイスのこの地方(レマン湖周辺地方)では、1541年ジュネーブでのカルヴァンによる宗教改革のあと新教が主流で、カトリックの教会は塔に十字架を立てるが、プロテスタントでは ”雄鶏” をのせるか、または何も乗せない、のだそうです。なぜ ”おんどり” なのか? 子供の時は知っていたけどもう忘れちゃったわ、というのが友人の言です。ちなみに彼女は私と同年齢ですから、忘却量はたっぷり!ご容赦ください。

ちょっと小高い場所にあるトロシュナ村の墓地 墓地撤去の予告 村の紋章がはいった墓地の如露
ところで、22年前にオードリーの墓を訪ねたときに、上記中央の写真のような掲示を見ました。トロシュナ村の村役場のもので、”申し出がなければ墓を整理する”と書かれています。スイスでは土地が少ないせいか、こうして20年か25年に一度墓を撤去するのですが、最近は、火葬の伝統がないスイスでも、灰にして樹木とか、湖(レマン湖)だとか、教祖?のカルヴァンの墓に撒骨する人が増えているそうです。文明社会共通の現象でしょうか? ちなみに、オードリーの墓は整理する理由はまったく無い!という正式回答をもらっていますので、心配無用です。

オードリーがメル・ファーラーと結婚式を挙げた、中央スイスのビュルゲンシュトックにあるチャペルには、ちゃんと十字架がついている。
前々回、トロシュナ村のチャペルの写真をご紹介したところ、屋根の塔に十字架が見えませんが、というご指摘がありました。ハイジおばさん、はじめて気がついてビックリ仰天!さっそくスイスの友人に問い合わせたところ、スイスのこの地方(レマン湖周辺地方)では、1541年ジュネーブでのカルヴァンによる宗教改革のあと新教が主流で、カトリックの教会は塔に十字架を立てるが、プロテスタントでは ”雄鶏” をのせるか、または何も乗せない、のだそうです。なぜ ”おんどり” なのか? 子供の時は知っていたけどもう忘れちゃったわ、というのが友人の言です。ちなみに彼女は私と同年齢ですから、忘却量はたっぷり!ご容赦ください。



ちょっと小高い場所にあるトロシュナ村の墓地 墓地撤去の予告 村の紋章がはいった墓地の如露
ところで、22年前にオードリーの墓を訪ねたときに、上記中央の写真のような掲示を見ました。トロシュナ村の村役場のもので、”申し出がなければ墓を整理する”と書かれています。スイスでは土地が少ないせいか、こうして20年か25年に一度墓を撤去するのですが、最近は、火葬の伝統がないスイスでも、灰にして樹木とか、湖(レマン湖)だとか、教祖?のカルヴァンの墓に撒骨する人が増えているそうです。文明社会共通の現象でしょうか? ちなみに、オードリーの墓は整理する理由はまったく無い!という正式回答をもらっていますので、心配無用です。

オードリーがメル・ファーラーと結婚式を挙げた、中央スイスのビュルゲンシュトックにあるチャペルには、ちゃんと十字架がついている。
スポンサーサイト
[329]スイスに住んだセレブ−1の5
[328]スイスに住んだセレブ−1の4
[327]スイスに住んだセレブ−1の3
■終の住み家「ラ・ペジーブル」舘

亡くなったあと、日本人が買うという噂もあった、ラ・ペジーブルの館の県道側通用門。 広大な敷地の脇の道を通って子供達は学校へ。
オードリー・ヘップバーンが、最初の夫メル・ファーラーとの子供であるショーンを連れて住み始めたトロシュナ村の「ラ・ペジーブル」(=the peacefulの意味)の館。二番目の夫となるドッティとは、この村の小さな教会で結婚式を挙げ, 二人目の息子のルカも生まれました。息子たちは、館の脇の道を通って一緒に村唯一の学校に通い、オードリーも他の子供のお母さんたちとなんのへだてもなくご近所つきあいをしていたとのことです。

ラ・ペジーブル舘の白い柵の通用門から振り返ると、県道越しにこんな景色が広がる。
たった1.6キロ平米、人口1600人ほどのこの小さな村には、商店もホテルもなく,ブドウ畑と果樹園ばかりが一面に広がっています。ここにオードリー1993年に亡くなるまでの30年間を過ごしました。
何故ここに?
それは彼女が、ひとりのお母さんであろうとし、それ以上を望まなかったからではないでしょうか?


亡くなったあと、日本人が買うという噂もあった、ラ・ペジーブルの館の県道側通用門。 広大な敷地の脇の道を通って子供達は学校へ。
オードリー・ヘップバーンが、最初の夫メル・ファーラーとの子供であるショーンを連れて住み始めたトロシュナ村の「ラ・ペジーブル」(=the peacefulの意味)の館。二番目の夫となるドッティとは、この村の小さな教会で結婚式を挙げ, 二人目の息子のルカも生まれました。息子たちは、館の脇の道を通って一緒に村唯一の学校に通い、オードリーも他の子供のお母さんたちとなんのへだてもなくご近所つきあいをしていたとのことです。

ラ・ペジーブル舘の白い柵の通用門から振り返ると、県道越しにこんな景色が広がる。
たった1.6キロ平米、人口1600人ほどのこの小さな村には、商店もホテルもなく,ブドウ畑と果樹園ばかりが一面に広がっています。ここにオードリー1993年に亡くなるまでの30年間を過ごしました。
何故ここに?
それは彼女が、ひとりのお母さんであろうとし、それ以上を望まなかったからではないでしょうか?