[300]ジュラノート34
■"ジュラ山中に自由あり"−1
今回のタイトルは、朝日新聞記者だった大学時代の級友、故小川特明氏が、1974年に朝日ジャーナルに掲載した記事の題名です。彼は、ジュラの人が持つ反骨精神、国境の不思議さ、ジュラに滞在したアナキストのバクーニンのことなど、もう40年も前に実に生き生きと描き出しています。この有能な記者がスイスで見たテーマのいくつかを紹介させて頂きます。

反骨の哲学者、ジャン・ジャック・ルソーも、ジュラ地方に難を逃れたひとりでした。どぶろく谷のVal deTraversの端にあるモチエ(Môtiers)の村には、ルソーの博物館があります。ルソーは、よくフランス人だと紹介されますが、スイス連邦に加盟する以前のジュネーブ共和国の出身ですから、現体制からいえばやっぱりスイス人と呼ぶべきではないかな? いまでもジュネーブの旧市街には生家が残り、見学も可能です。
今回のタイトルは、朝日新聞記者だった大学時代の級友、故小川特明氏が、1974年に朝日ジャーナルに掲載した記事の題名です。彼は、ジュラの人が持つ反骨精神、国境の不思議さ、ジュラに滞在したアナキストのバクーニンのことなど、もう40年も前に実に生き生きと描き出しています。この有能な記者がスイスで見たテーマのいくつかを紹介させて頂きます。


反骨の哲学者、ジャン・ジャック・ルソーも、ジュラ地方に難を逃れたひとりでした。どぶろく谷のVal deTraversの端にあるモチエ(Môtiers)の村には、ルソーの博物館があります。ルソーは、よくフランス人だと紹介されますが、スイス連邦に加盟する以前のジュネーブ共和国の出身ですから、現体制からいえばやっぱりスイス人と呼ぶべきではないかな? いまでもジュネーブの旧市街には生家が残り、見学も可能です。
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吉田卓さまへ
小川特明さんとは、外語時代のクラスメートでした。専攻のフランス語の授業でお会いする以外は、話をすることがあるような、ないような、まあクラス全体がそんなぼんやりした雰囲気した。40人のクラスに女子学生は4人しかいなかったので、あまりお近づきにはなれませんでしたが、いつも優しい風情でいらしたことが思い出されます。
級友の妹さんと結婚なさったように聞いていますが、その級友もやはり通信社に勤めてのち日銀の副総裁になりましたので、ご存知かもしれませんね。私がスイスに勤務するようになってから、上記の記事をお送りくださいましたが、日付を見ると1974.12.13となっており、確かスイス大使館の記者招待だったように言っておられました。早くに亡くなられてしまいましたが、ほんとうに良い人ほど早く亡くなると、その時も感じたものです。
吉田さまの投稿は嬉しい驚きでした。クラスメートの集まりでも話したいと思いますので、よろしければ、メールアドレスなど、また今どのようなご活躍をしておられるかなど、お教えいただければ、とても嬉しいです。
私のアドレスは、romandie.suzuki@nifty.ne.jpです。
級友の妹さんと結婚なさったように聞いていますが、その級友もやはり通信社に勤めてのち日銀の副総裁になりましたので、ご存知かもしれませんね。私がスイスに勤務するようになってから、上記の記事をお送りくださいましたが、日付を見ると1974.12.13となっており、確かスイス大使館の記者招待だったように言っておられました。早くに亡くなられてしまいましたが、ほんとうに良い人ほど早く亡くなると、その時も感じたものです。
吉田さまの投稿は嬉しい驚きでした。クラスメートの集まりでも話したいと思いますので、よろしければ、メールアドレスなど、また今どのようなご活躍をしておられるかなど、お教えいただければ、とても嬉しいです。
私のアドレスは、romandie.suzuki@nifty.ne.jpです。
小川特明氏のこと
初めまして!
私は小川特明さんとは韓国語を一緒に勉強した仲でした。
私の故郷の宮崎には取材で来られた時、私と写真家の芥川仁氏が友人であることに酷く驚かれた様子でした。なぜなら芥川氏を最初に見つけ出し、朝日ジャーナルに写真を掲載したのは小川さんだったからです。
私とはゴールデン街から歌舞伎町のビルの屋上で寝て帰ることが多く、それまで朝日の記者とは知らなかったのですが、生田の高台にある立派な家にお住まいでびっくりしました。それまで同じジャンパー、両手には紙袋、お金がないことをいつも嘆かれていたのでホームレスかと思っていたからです。髪は伸び放題、肩にはフケ、あんな汚い身なりでしたので。二回り以上も年齢は違ったのですが、本当に仲良くしてくださいました。
2002年の春に順天堂病院に見舞いに行ったら、逃げ出して飲みに行こうと云うことになり、
それから桜の散る頃に再び見舞いに行ったところ退院したばかりで、その後に家に電話しても奥様はお見舞いを余り歓迎されないようでしたので退院をお待ちしていたのですが、それっきりになってしまいました。
いつもランボーの詩を口にされていたのが懐かしく思い出されます。
いつも
私は小川特明さんとは韓国語を一緒に勉強した仲でした。
私の故郷の宮崎には取材で来られた時、私と写真家の芥川仁氏が友人であることに酷く驚かれた様子でした。なぜなら芥川氏を最初に見つけ出し、朝日ジャーナルに写真を掲載したのは小川さんだったからです。
私とはゴールデン街から歌舞伎町のビルの屋上で寝て帰ることが多く、それまで朝日の記者とは知らなかったのですが、生田の高台にある立派な家にお住まいでびっくりしました。それまで同じジャンパー、両手には紙袋、お金がないことをいつも嘆かれていたのでホームレスかと思っていたからです。髪は伸び放題、肩にはフケ、あんな汚い身なりでしたので。二回り以上も年齢は違ったのですが、本当に仲良くしてくださいました。
2002年の春に順天堂病院に見舞いに行ったら、逃げ出して飲みに行こうと云うことになり、
それから桜の散る頃に再び見舞いに行ったところ退院したばかりで、その後に家に電話しても奥様はお見舞いを余り歓迎されないようでしたので退院をお待ちしていたのですが、それっきりになってしまいました。
いつもランボーの詩を口にされていたのが懐かしく思い出されます。
いつも
Re: 17日でした(予約投稿でのミスしました)
> 応援、深謝!です。
> 列車事故、以前にもあった氷河特急と同じ、長い路線の一部です。
> なにしろ深い谷の部分で(地名も底なし城みたいなものですもの)、いつ崖が崩れてもおかしくない、つまりこんなところに鉄道を敷く方が間違い!と言いたくなるような場所ですからね。警報は出ていたようですが、列車に乗っていては逃げられませんね。このところスイスも天気が悪いと友人たちのメールも言っていました。なにか事故があるごとに、済みません、という気持ちです。
> 列車事故、以前にもあった氷河特急と同じ、長い路線の一部です。
> なにしろ深い谷の部分で(地名も底なし城みたいなものですもの)、いつ崖が崩れてもおかしくない、つまりこんなところに鉄道を敷く方が間違い!と言いたくなるような場所ですからね。警報は出ていたようですが、列車に乗っていては逃げられませんね。このところスイスも天気が悪いと友人たちのメールも言っていました。なにか事故があるごとに、済みません、という気持ちです。
れ? もう18日ですか?
ハイジおばさんへ
へえ、そうなんだ。という情報いいですね。
応援します。
最新コメントの日付18日になってました。なんでかな?
スイスの列車脱線事故、日本人観光客?も巻き込まれてしまいましたね。
事前に地滑りの情報はなかったのでしょうか。
へえ、そうなんだ。という情報いいですね。
応援します。
最新コメントの日付18日になってました。なんでかな?
スイスの列車脱線事故、日本人観光客?も巻き込まれてしまいましたね。
事前に地滑りの情報はなかったのでしょうか。